2011年2月15日火曜日

『御茶ノ水のホテルの一室で』


 建物の外壁に残された銃弾の跡を数えきれない。一面に広がる小さな白い墓石を数えきれない。全て1995年までの戦争の傷跡だ。セルビアからボスニアに向かう約9時間の電車の旅はまるで生きる戦争博物館である。旧ユーゴスラビアの冬はとても厳しい。見渡す限りの大自然に降り積もる雪。凍てつく風。人々は肩を竦めて歩いていた。しかし、たった16年前に大虐殺が起こり、戦争が終わったにもかかわらず、街は都会並みに発展しており、人々は明るく優しい。戦争で負った心の傷を忘れようとしているのだろうか。心の傷跡は建物に残された傷よりも深いに違いない。20112月上旬、一週間ボスニアを訪れた。第二次世界大戦以降ヨーロッパで起こった最悪の戦争。私たちが同じ時期に、日本で平和に暮らしていた事と対比して読んでいただけたらと思う。

 「この町では1500人が殺された」、「この町では3000人が殺された」、「この建物内で700人が殺された」。ガイドを勤めてくれたスケンダー(26)の喋りはこの地域に入ると止まる事を知らない。彼だけではない、この地域の全てが常に何かを訴えている。ボスニアの首都サラエボからセルビアとの国境付近スレブレニツァまで車で2時間半。その間、いくつの破壊された赤レンガ造りの家を目にしただろうか。大自然に囲まれたボスニアでは、数多くの山々に未だ地雷が埋められたままである。時折、目に留まる小さな赤い旗にガイコツが描かれた地雷警告板が緊張感を刺激する。1995年7月、約2週間の間にボスニア人8372人が虐殺された舞台が、目的地のスレブレニツァである。遺体が発見され、身元が明らかになった人々は3500人ほどいるが、4000人以上がいまもこの地のどこかに埋められたままである。

 虐殺現場に足を踏み入れた。広い敷地に冷たい風が吹き、重く、冷たく、静かな雰囲気が漂う。一歩一歩しっかりと踏みしめて歩かないと、恐怖に押しつぶされてしまいそうだ。車のモーター工場の跡地を1995年当時の国連オランダ軍が拠点として利用したところが、約1000人が虐殺された現場である。壁に残された銃痕に触れると、ひやりと冷たい。すべての傷跡が時を逆巻にし、当時の様子を喚起させる。すべてあの時のままだ。
 現在ここは、Memorial Roomとして利用されている。館長のハッサムさんが鍵の掛かった固く閉ざされた扉を開けてくれた。建物の中には、当時の写真や人々の遺品が飾られている。遺品はまだまだ少ないものの、そこに人々がいたことを示すのには十分だった。ハッサム館長は、ここをより記念館らしくするために日々奮闘している。「セルビアは戦争後半の大虐殺を否定している。そして今でも、1000人近い元セルビア軍人がこのスレブレニツァに住んでいる。そして虐殺したことを否定する奴もいれば、虐殺を正義のためだったと言う奴もいる」。ハッサム館長は当時の事を説明してくれる間、時々語気を強め、怒りを露にしていた。彼自身、大虐殺が起こった当時スレブレニツァに住んでいた。館長は彼自身が生き延びることができた事を運が良かったと言う。生き延びた事への責任感もあるのだろう、記念館の設立もそうだが、私の一つの質問に対して百の答えを返してくれた。一つひとつの強い気持ちがこもっている言葉に、久しぶりに出会った。体験者が語れる言葉であろう。

 Memorial Roomの目の前には、虐殺記念碑がある。ここにも白い墓石が一面に広がる。その中に、緑色の小さなプラスチック製の墓石がいくつかあった。スケンダーに尋ねると、それは去年新しく発掘された人々の墓で、今年7月の記念日に白い墓石に建て替えられるという。虐殺遺体の発掘作業は今でも続いている。多くのNGOが発掘作業を行っているという。発掘作業には莫大な費用がかかり、なかなか進んでないのが現状だ。スレブレニツァの土地を一歩踏むたびに、この下に人が埋まっているかもしれないと困惑した。スケンダーとハッサム館長は口を揃えて、私に何度も訴えた。「虐殺され埋められた人々は、ずっと探されるのを待っている。この地での戦争はまだ終わっていない」。

 虐殺されたうちの90%以上は男性だ。残された母親や妻、子供はいまでも生きている。16年前に起きた虐殺だから当然である。私たちと同年代の子供もいる。スレブレニツァで観たインタビュービデオには、夫を亡くした夫人達が多く映されていた。私の母親と同い年くらいであろうか。戦争が始まる前に撮られた家族旅行の写真を見せながら、悲しみを語っていた。「夫がいつ何処でどのように殺されたのか、いま何処に埋まっているのか、何も分からない。今でも毎晩、夫の事を想い泣いています」。愛する人や家族を失うということはどういうことなのか、それは私の理解の範疇を越えるところにある。「遺族にとって『どのように』ということはとても関心の高いことかもしれないが、『なぜ』この虐殺が起こったのかを僕らは追求しなくちゃならない。二度と起こしてはならないんだ」。

 戦争当時の首都サラエボを記録した映像は、凄まじい。追撃砲(mortar)で79人が死亡した直後の映像である。女性の足首は骨が剥き出しになり、皮一枚でギリギリ繋がっていた。頭蓋骨の一部が欠けた死体。血の海。まさに地獄絵図である。前述したようにガイドを努めてくれたスケンダーは現在26歳である。彼が8歳から11歳の時期、サラエボで戦争を体験した。サラエボはセルビア軍に包囲され、食料や医療がままならなく、飢餓で亡くなった人も少なくない。その他、スナイパーによる射殺、砲弾による虐殺を含め4年間の間に11,000人以上が亡くなったと言われる。スケンダーは決して食事を残さない。「食べることができなくて亡くなった人が沢山いた。絶対に残してはいけない」。彼自身、戦争の記憶は強烈に残っていないと言うが、記憶ではなく骨や随に戦争体験が染み付いているのだろう。

 墓石の前でたたずみ、泣いている女性がいる。老人夫婦が墓石の上の雪をかき分け、キレイに掃除し、花をいっぱい飾り、墓石の前でたたずむ。見渡す限りなく降り積もる雪のように、サラエボにも白い墓石が一面に広がる。大多数の墓石には92年や95年と死亡年が刻まれていた。なかには、生存年が91-95年というのもあった。墓石には赤ん坊の写真が埋め込まれている。なんとも短い命だったのだろう。きっと私たちと同い年生まれで、戦時中に亡くなった子供の墓石もあるだろう。日本では決して体験できないことを、サラエボではできる。それは、同世代が戦争体験をしていると言うことである。日本では1945年に広島・長崎に原子爆弾が落とされた。66年前のことである。被爆者や戦争体験者は年を取り、話を聞く機会も少ない。しかし、このボスニアでは大多数が戦争体験者である。みんな戦争を知っている。戦争とは何なのか知っている。虐殺とは何なのか知っている。家族を失った悲しみである。最愛の人を失う恐怖である。だから、みんな墓石の前で泣くのだ。

 サラエボはヨーロッパのエルサレムと言われる。エルサレムはアルメニア・イスラム・キリスト・ユダヤ教の聖地とされ現在に続く紛争はあるものの、各宗教が集っているところである。サラエボにもイスラム・キリスト・セルビア正教会・ユダヤ教が集っているところだ。町を歩けば教会、シナゴーグ、モスクがある。スケンダーは言う。「戦争直前もまさか戦争が起こると思っていなかった。みんな共存してきたんだ」。残念ながらサラエボ市民は戦争を忘れようとしているとスケンダーは言っていた。特に若い人たちは過去の戦争に目を向けないのだという。何故だかは分からない。スケンダーはたった一人でツアーを営んでいる。全世界の人々にサラエボで何が起こったのかを知ってほしいからだ。たった一人の闘いである。しかし、ツアーには様々な国の人が訪れている。子供から大人。全世界の人である。世界は変えられない。だけれども彼は人ひとりずつの心を確実に変えている。非常にパワーのある若者だ。ヨーロッパのエルサレムと言われるほど、様々な文化が入り交じり、美しい都市だ。それが共存する素晴らしさである。彼は彼の土地や歴史を守るために一人で頑張っている。彼は非常に優秀だ。戦争で被害の大きい各地をツアーで回る組織を彼自身で立ち上げ、彼自身でガイドをする。ツアーのホームページも彼が2年の歳月を懸けて作ったと言う。サイトはプロの仕事と言う他ない。そんな若者に出会えて本当に嬉しかった。
スケンダーのサイト:http://www.sarajevofunkytours.com/en.html

 マーケットの隅に、花束の山がある。約60人が虐殺された場所だ。私がそこを訪れた日はちょうどその虐殺の記念日であった。記念碑が建てられており、その後ろのガラス窓には被害者の名前が書かれている。よその民族が献花するとは何事かと思われるのが不安であったが、花を渡してくれたおじさんが笑顔で花を渡してくれ、私を受け入れてくれた彼らの姿勢がとても嬉しかった。私も一束の花を献花させてもらった。黄色の、とても美しい薫りのする花だった。花を持ちながら、墓石の前に立つ。とても悲しい場所なのにも関わらず、私はとても優しい気持ちになれた。花売りのおじさんたちが私を快く受け入れてくれた事もあるだろう。より空想的に言うなら、虐殺された方たちが私を受け入れてくれていると心から感じたのである。献花し終えると、おじさんは「ありがとう」と言い、サラエボの人々の心の大きさ、みんなが共存し合えると思う心を持っているのだということを肌で感じた。

 この国は悲しみ以上に幸せが存在する国である。公園ではカップルが寄り添い、子供は無邪気に遊ぶ。なんと言っても人々の笑顔が素敵だ。オスマン帝国時代の雰囲気が残っているサラエボ旧市街、世界遺産の橋があるモスタル、各地を回る際、電車から見える風景は言葉には表せない。このような美しい土地が彼らの心を育て、彼らがこの土地の美しさを守っているのだと思った。

 家族や愛する人を失い、戦争で負った心の傷は決して癒えない。しかし、彼らはこの土地を愛し続け、人を愛し続ける。それが彼らの明るさの源なのかもしれない。どんなに悲しくても、愛する心を決して忘れない。愛する心を忘れられないから、永遠に泣き続けるのかもしれない。透明で、真っ直ぐで、どこまでも素直な彼らの心。器用なやつが上手く生きると言われる。そんなことはない、自分の心に素直なやつが人生を幸せにできる。

 いま隣に、私の愛する人がいる。幸せとはこういうことなのだと改めて感じる。愛する人に対してはいつまでも、素直な心でいたい。幸せにしたい。そんなことを考えた日本に帰国して初日の夜である。

2 件のコメント:

  1. Welcome back to our fuckin' and beautiful country!!

    君の帰国を待っていたよ。

    久しぶりに「温度」を感じられる文章を拝読しました。
    スレブレニッツァに行ってくれてありがとう。

    おれ、将来はBBCやCNN、アルジャジーラのような環境で報道に携わっていきたいって強く思うようになった。

    だから今更だけど、必死こいて英語の勉強してる。笑

    また、ゆっくりと話そう!!!

    きし

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  2. 反体制反権力。

    キーワードはheartだね。



    おかえり、しゅーーーーーーーーちゃん!!!!!!!

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