2010年11月28日日曜日

『涙は海の味』


 「政府が変わっても、ここは変わらないねぇ」。“おばあ”はもうすぐ90歳になろうとする。沖縄戦、米軍占領下の沖縄、本土復帰後の「基地の島」沖縄に住んできた人々の言葉は重い。たくさんの想いと悲しみが込められた言葉である。どっしりとした体に、かわいい笑顔。温かさと侘しさを映し出す目を辺野古の海に向けて、そう述べた。

 コバルト色を放つ海。白い砂浜。ジュゴンの生息地として有名な辺野古の海は、海草も豊富だ。きれいに透き通った海の底を見るとサンゴが波と一緒に踊っている様に見える。ゆったりとした自然のリズムは人間に心地よく、人間も自然の一部なのだと実感できる。海草はもちろん人間も食べることもできる。若者が海草を取りに行き、老人が陸で野菜を育てる。若者と老人の間で海草と野菜を物物交換することもあるという。自然と人間が共に生き、ファストフードではなく、自然が育ててくれたスローフードを嗜む。これが辺野古に住む人々の生活だ。砂浜を歩けば流れ着いた流木が歴史を語り、サンゴの死骸が砂浜にキレイな模様を描き、ヤドカリはてくてく歩く。無限に広がる博物館。「一つが見えてくると、全体が見えてくるんだよ」。いつも笑顔のまんちゃんは大きな地球の真理を教えてくれた。

 「2343」。2010917日までに辺野古の市民が座り込みを続けてきた日数である。普天間基地の移設先として、辺野古の海は埋め立てられようとしている。雨の日も、風の日も、嵐の日も、灼熱の日も市民が座り込みを続ける辺野古を1年ぶりに訪れた。辺野古の市民は現状を変えるために、一人ひとりが行動を起こし、闘っている。争うためではなく、守るために。

 数年前に辺野古の海に基地建設の環境アセスメントを実行するためにやぐらが建てられた。住民はカヌーに乗り、海上で闘った。なかにはお年寄りもいたという。やぐらが建てられると、住民はこれ以上工事を進行させないために、やぐらに登り、闘う。鉄骨でできたやぐらに住民はしがみついた。政府から派遣された環境アセスをする職員は、しがみつく住民の手を無理矢理はぎ取り、ある住民は船の上に、頭から真っ逆さまに落ちたという。「打ち所が悪かったら、間違いなく死んでいた」。座り込みをする“おばあ”はそう当時を語ってくれた。
どこのメディアがこの事実を報道しただろうか。
政府が非暴力の市民を殺そうとしたのである。
海中で闘う市民もいる。彼らは職員に酸素ボンベのノズルを閉められ、息ができなかった。殺そうとしたのである。
この海を守るために、住民は死ぬ気で闘う。

権力と闘うこと。
言葉では簡単ではあるが、事実は想像を絶する。
権力とは概念ではあり、決して目に見えない。
彼らはそれと闘っているのである。
この時期に闘っていた住民の多くは権力との闘いあと、体を崩したという。

権力と闘うということを体で感じ、
いかに巨大で、いかに暴力的で、無慈悲か。
すべての想像を越える権力。
その権力と自分たち自身が闘っているという事実を認識したとき、人々の精神は崩壊する。
その事例を、座り込みをしている人々が体現していた。

決してこの苦しみは誰にも分からない。体験した人々でないと分からない。
私にも分からない。いかに恐ろしいもので、人間を蝕むのか。


今日、20101128日日曜日は沖縄知事選だ。勝負の日である。

基地はいらない。今まで生きてきた私の人生のなかでの結論である。

基地はいらない。基地はいらないのである。


沖縄で少女が米軍にレイプされるのも、沖縄から派遣された米軍がイラクやアフガニスタンで子供や女性を殺すのも、爆音で夜が眠れないのも、基地によって仲の良かった地域が分断されるのも、沖縄の人々が悲しい顔をするのも、
もう、たくさんだ。


沖縄は観光の島ではない。
基地の島である。
みんな知らない。自分が観光だけ楽しめば良いと思っている。そんなんじゃない。
観光を楽しむのもすごい大切だけど、
それを支えている人々の、過去の悲しみや、現代の苦しみに目を向けてほしい。



「政府が変わっても、ここは変わらないねぇ」と“おばあ”は言った。でも「沖縄の市民は変わり始めている」とも言った。
日本を変えるのは絶対に政府なんかじゃない。私たち一人一人の市民である。




絶対に変えたい。
私は怒っている。



久々に泣いたような気がする。
悔しさで流れた涙は、海の味がする。

2 件のコメント:

  1. 周平は辺野古の移設問題だけではなくて、国内の基地のすべてに反対ということだよね?そうなると日本の安全保障はどういうふうに変わっていくべきなんだろう?素朴に意見が聞きたかった。

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  2.   とりあえず私の立場を明確にするために述べておかなければならない事は、私の目指しているものは基地が無くなることです。理想を常にそこに置いているし、ベクトルもそれに向かっている。
     感情的な面で人間を殺し続ける基地という存在が大嫌いという気持ちはもちろんあるけれど、感情的な部分を抑えて冷静に考えるならば、本当に基地って必要なのか?という疑問から全ては始まると思う。
     基地は必要なのか?基地は安全保障にも関わるし、雇用にも関わるし、外交にも関わるし、観光にも関わるし、私たちの生活にも関わる。多くの面に基地という存在は関わっていると思う。
     関わる部分から基地という存在を除いて考えてみると、基地がなくてもそれらの要素は十分にやっていけるんじゃないかと、私は思います。
     たとえば、雇用。基地のある地域には常に基地経済が絡み付いて、基地が無くなると雇用を失うと一般的に言われる。でも実際に、基地として土地を使うよりも、テーマパークやその他の目的で土地を使った方が、土地としての経済的生産性がより良いことは分かっている事だし、実際に沖縄県読谷村で実際に証明されているはず。つまり基地に頼らなくても、経済や雇用は十分にやっていける可能性はあるので、基地問題は雇用問題にはなる可能性は低い。
     前ぶりは長くなりましたが、基地といえば「安全保障」。屁理屈の様に聞こえるかもしれませんが、安全保障に基地や軍隊って必要なの?という疑問を私は持っています。一国の安全保障は、軍隊の力だけで成り立っている訳では決してない。そこには経済や文化、外交などが大きく絡んでいる。そう考えると軍隊を持たなくても基地を持たなくても、安全保障はやって行ける可能性があるのではないかと強く思います。決して今すぐ基地は無くなれ!とは言いません。まったくそれに対する準備ができていないと思う。
     日本政府の外交や安全保障戦略は、戦略なき日本という言葉がそのまま当てはまる戦略のなさです。すべて米国任せ。まず沖縄にしても、本土にしてもしっかりと日本政府の主権を米国に発揮しなければならないと思う。現状の日本政府は何も主権の持たないアメリカの占領地域。まずは主権国家ということを明確に米国に示す事から、日本の独立が見えてくるのだと思う。
     そして、じゃあ、いかに日本の安全保障を構築していくのか。前述したとおり安全保障は外交や経済など色々な要素に支えられて、成り立っている。つまり軍隊以外の安全保障の要素(ソフトパワー)をいかに強化していくかが、軍隊のいらない安全保障環境の整った日本を作ると思います。最近はあまりにも世界が力任せに動きすぎている。そのなかで日本は軍備に頼る安全保障ではなく、ソフトパワーを最大限に生かした安全保障にベクトルを変えて行くベキだと思う。

    余談ではあるが、
     おもいやり予算や防衛費が無くなれば、国家の財源にだって多少の余裕ができるだろし、ハードパワーを抱えるという事はとてもコストのかかる非経済的な事だからね。


    いろいろ長くつらつらと述べたけど、結論はとても簡単で、


    暴力は何も生み出さない。


    という事です。それは一人ひとりの人間においてもちろん言える事だし、国家に対しても言える事だ。



    ps バーミンガムでみんなと遊びたいです笑。
    というか、聞いてほしい話があるので、そのうち行くと思います。 
     

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