2010年9月15日水曜日

『星空の繋がり』


 「おはよう」。それが私と彼らが交わした最初の言葉だった。日比谷線・南千住駅の改札を抜けると、異様なニオイと雰囲気が漂う。捨てられた缶ビールと散らかる吸い殻。線路をまたぐ歩道橋からの景色は、隅田川沿いの閑静な街に見える。しかし、その街には誰もが見知らぬふりをする路上生活者街がある。駅から徒歩で10分程行ったところが山谷と呼ばれる路上生活者街だ。超近代建築、東京スカイツリーが見下ろす山谷は、一見寂しい街だが、そこには人と人とが繋がり、助け合う雰囲気がある。200912月、私は山谷に炊き出しの手伝いに行った。雪が降り出しそうな寒い冬空の下、温かい人の営みがそこにはあった。

 建物が立ち並ぶ山谷の一角。500人ほどの炊き出しを待つ、長い行列が私を圧倒した。話しながら数人のグループで待つ人々、大きな荷物を持って孤独に並ぶ人。全てが私にとって始めての視界だ。身も知らぬ私に、彼らが挨拶してくれ、緊張が少し緩んだ。白い御飯に豚汁をかけた食事を求め人々は集ってくる。食事を終えた後、もう一度、列に並ぶ人もいた。山谷において食事という人間の生きる営みを支える団体の一つが、日本にあるマザーハウス系列の施設、Missionary of Charityだ。

 並んでいる人々に食事を配り終えると、次に弁当を持って地域を回る。動く事の出来ない高齢の路上生活者のためだ。弁当の入ったカゴを、自転車にヒモで結び、一人ひとりに手渡していく。無表情な彼らも私たちが話しかけると喜んで返事をしてくれる。「この弁当、キムチが入っていて辛いけど大丈夫?」。同じボランティアの大泉さん(60)の声掛けが温かい。動く事が出来なく、普段孤独な彼らの体調に誰も気がつかないため、ボランティアによる声掛けが非常に重要である。

 路上生活者を「負け組」と排除し、「自己責任」との偏見が根強い日本社会の風潮がある。しかし、貧困は日本における深刻な問題である。新卒切りや内定切り、派遣切りなどの雇用問題は、いつ自分の身に降り掛かってくるか予想もつかない。企業の論理によって、簡単に人の人生は一転する。それが現実だ。人のいのちを「商品」としか見えなくさせる、新自由主義や効率化の波が日本にも迫っている。それが貧困日本社会の裏舞台にある。決して、人のいのちは経営者が金儲けするための「商品」ではない。

 キリスト教の影響もあるが、貧困問題が見えづらいためか、前述したMissionary of Charityのボランティアには外国の方が多い。マザーハウスから派遣されたインド人やキリスト教の韓国人が多数派を占める。弁当にキムチが入っていたのもそのためだ。私を含め、日本人は見知らぬふりをする傾向が少なくない。ただただ海外からの日本に住む外国人に感銘を受けるばかりだった。

 私が育ち、21年以上住む街、横浜にも路上生活者街はある。横浜スタジアムの真横、寿町だ。きれいで、華やかな横浜の一角にある、どんよりとした雰囲気には驚かされた。今まで21年間生きて、その存在さえ去年まで知らなかったのだ。

 灯台下暗しとは言うけれど、ごく身近な場所に私自身の問題意識がある事に改めて気づかされた。

 例えば、雨の降る日、傘を持っていない路上生活者の方に傘をあげることで、今まで自分の世界にはいなかった人を、同じ人間なんだと捉える事が出来るかもしれない。一人の人間と繋がり、自分と社会が繋がる事もある。視野を拡大する要素は無限に身近にあるのだ。

人と人が繋がった先に、自分と社会は繋がる。

人と人との繋がりは、山谷での出来事のように助け合いを生むことがあるし、自分と社会との繋がりの接点を生み出す事もある。

人と人が繋がり、同じ人間であると心から感じることが助け合いを生むきっかけになるのであると山谷で感じた。


アフガニスタンに行く、米軍に勤める若いアメリカ人看護士と握手を交わし、アフガニスタン戦争と私が繋がったときに、
波の音に耳を澄まし、流れ星が流れる沖縄の満点の星空の下、想ったことである。

2010年9月12日日曜日

『秋の風』

 インド東部コルカタに「マザーハウス」という施設がある。生前のマザーテレサが貧困の中でも、さらに貧しい人々を救ってきたところである。彼女の亡き後は、彼女を慕うシスターやブラザー、また世界中から来る一般市民のボランティアによって施設は支えられている。マザーハウス施設の一つに「死を待つ人の家」がある。とても一人では生活する事ができず、衰弱している路上生活者を世話するところだ。20093月、私は一ヶ月間「死を待つ人の家」で手伝いをしてきた。

 ヤギの首を切り、生け贄に捧げることで有名な観光地、カーリーガート寺院のすぐ隣に「死を待つ人の家」はある。コンクリートが溶けてしまうのではないかと思うくらいの灼熱の太陽光、病気で毛が所々抜け、暑さでへばっている野犬、観光地ならではの華やかな露天土産屋。露天を通り抜けるとカーリーガートが見えてくる。施設の入り口では回復して施設を出た路上生活者がいる。施設に入る事ができても、施設から出た後は再び路上生活に戻ってしまうのが現実である。「死を待つ人の家」に入ると、消毒液か洗剤の凄まじい臭いに包まれる。まるで、違う世界に入ってしまった感じだった。

 ボランティアの仕事は介護業務のようなものである。近所住民から連絡を受けると、現場まで行き、衰弱しきった路上生活者を二人組で施設まで運ぶ。その後、全身を石鹸とスポンジできれいに洗う入浴介助、具沢山のカレーを食べだせる食事介助、また排泄介助などを行う。その他、洗濯や薬配給などがある。仕事の甲斐も虚しく、人々が死んでいくのが施設の現状だ。

 運んできた老人の体を洗うために私が服を脱がそうとすると彼はポケットからお金を取り出し、一枚一枚、大切そうにゆっくりと数え始めた。彼が必死に物乞いをして集めたお金。毎日灼熱の太陽の下、衰弱するまで集めたお金。とても大切そうだった。身寄りがなく孤独だった彼にとって、集めたお金は彼の全てだ。
 数え終えると、彼は感謝するジェスチャーをして、死ぬ気で集めたお金を私に渡してきた。私は泣いた。

お金を貰えて嬉しかったから泣いたのではない。
彼を無事に施設まで運べた事が嬉しくて泣いたのではない。

悔しくて、悔しくて、私は泣いたのだ。


こんな世界は消えて無くなれと思った。


彼の体を洗った後、彼の洋服と彼のお金をシスターに預けた。
所持品は、彼が施設から出るとき、全て返される。





 介護というと排泄介助ばかりイメージにあり、あまり良いイメージは持っていなかった。しかし、介護とは決して単一なイメージに終わるのではなく、深く、人間の生を感じることができる。一言で言えば「生きる営みを支える」仕事である。

 野菜たっぷりのカレーをスプーンで食べさせると、美味しそうな顔で次の一口を求めてくる。魚が入っているカレーは、骨を取ってから食べさせてあげる。もちろん、みんな嫌いなものもあるから、機嫌を損ねないように、それを避けて食べさせてあげる。
 栄養満点の食事のお陰で、とても健康的なウンチが出てくる。
 汗をかき、汚れたら体を洗ってあげる。冷たい水で体を洗われるのが苦手な老人の嫌がる姿はとても人間らしい。とても、可愛らしいのだ。

 表情が見えないと、人間はロボットのように感じられる。
彼らが介護されるために生きてるんじゃないかと思った事もあった。

 美味しそうな表情、嫌がる表情、何かを要求する仕草。彼らはロボットではない。彼らは生きるために生きている。人間は生きるために生きるのだ。

生活にもなれ余裕ができ、彼らの人間的な側面が見えるようになると新しい事に気づく。
 
介護は、「生きる営みを支える」仕事なのだ。
食事や排泄などの、生きる根源を支えるものである

人間は生きている間、2度、人の世話を受ける。
赤ん坊の時と高齢の時だ。
赤ん坊を世話する事が当然のように、高齢の方を世話することも当然なのである。




一人で生きることができないから、生きている価値が無いということはない。人は人に生かされているのである。




この世界は、なぜ生きることを望んでいるだけなのに、
あの老人が、なけなしのお金を私に渡そうと思う構図となっているのだろう。
彼にとっての全ては1000円にも満たない金額だった。

沢山の感謝の気持ちが込められた1000円だったが、
私には彼の沢山の感謝で十分だ。


「人は一人で生きる事はできない」
大切な事を教わった。


あの経験があったから、今の私がいる。
この素晴らしい毎日がある。

私こそ彼に心の底から感謝したい。





夏の終わりに吹く秋の風は、私の中にある灼熱の地インドを、寂しくも懐かしく蘇らせる。季節の移ろいと共に、私も次のステップに準備ができたということだろうか。
過去の自分に恥じないように精進したい。

『再会の葉書』

 懐かしい名前の書かれた、一通の葉書が自宅に届いた。群馬県川原湯温泉で土産屋と旅館を営む、樋田ふさ子さんからだ。青地のカラフルなジャケットと笑顔が素敵な、おばあちゃん。優しい心遣いが印象的だった。差し出してくれた茶とまんじゅうは忘れられない。

 

 「私たち、親、私、子、孫は4世代に渡って、ダムに苦しまれ続けてきた。この先もどうなるか全く分からない」。おばあちゃんの想いに心が熱くなった。川原湯温泉と聞いて、パッと分かる人は少ない。八ツ場ダムと聞けば分かるだろう。多くの人にとっては、過去の問題かもしれない。たった一年前に世間を賑わした八ツ場ダム問題は、もはや誰も気にしない。


 川原湯温泉街のゆるやかな坂を少し登ったところにある郵便局のちょうど目の前に、おばあちゃんが営む土産屋「お福」がある。川原湯は山に囲まれ、ニホンカモシカが現れるほど、自然が豊かなところである。今もなお、ダム建設に向けての工事は着々と進んでいる。昨年10月下旬、葉が色づき始めた季節、八ツ場ダムを訪れた。葉書が届き、約一年ぶりにおばあちゃんと再会した気持ちになった。政治に翻弄され、進退するダム計画とともに生きる人々と出会った、あの時を振り返ってみようと思う。




 川原湯温泉は、山々の谷間を流れる吾妻川沿いにある温泉街である。源頼朝が発見した温泉とされ、その歴史は長い。温泉街の端にある足湯では、温泉卵が作れる場所もあり、足湯に浸かりながらの温泉卵は絶品だ。


 八ツ場ダム計画は1952年に発表され、それ以来、住民の反対運動は続いていた。

 
 「計画が発表された当初は、私の親を含めて、地域住民はみんなダム湖に沈んでも湖底で生活すると言って、反対していたよ」。
 当時を振り返り、おばあちゃんは語る。

 一転、92年に地元と国との間でダム建設協定書が交わされ、温泉街はダム湖の湖畔予定地に代替地を設ける計画になった。
 40年間、ダムと闘い続けてきた地元住民の疲弊感は限界に達したのだろう。住民の疲弊とカネを利用した、公共事業推進の恐ろしさである。
 
 ダム建設に伴い、石仏や墓地までもが移転を強いられていた。建設中の新しい墓地現場は、真新しい墓石がきれいに区画されていた。堂々と建設会社の重機が墓地で動かされている光景は胸が痛かった。

 代替地に住みたくない住民は他の地へ移り、昔からの友人と離ればなれになり、寂しく暮らしている人も少なくないという。高齢の方が新たな地に住み、都市部の地域コミュニティーになじめないのは想像に難しくない事である。「誰も代替地に移りたくない。仕方なく代替地に行く人もいれば、他の土地にいく人もいる」。


 52年以来、約半世紀経ってもダムは未だに完成していない。
完成どころか、昨年の政権交代に伴い、ダム計画が「中止」されたのである。


 長年の闘争の上、ダム計画に渋々納得した住民の思いは、政府に裏切られたのである。
 移転した墓地はどうするのか。
 他の地に移り住み、生きづらさを感じて生活している高齢者の決断はなんだったのか。
政治に翻弄され、人生を滅茶苦茶にされた人々の苦労は、言葉では表せない。


 澄み切った青空の下、賑わう紅葉。目を閉じて、川の音、鳥のさえずりに耳を澄ますと、長年のダム問題闘争なんて感じさせない自然。


 工事用のトラックの音と、そびえ立つ工事中の橋脚が、一瞬にして、私を現実に戻す。コンクリートの道路は、トラックが通るところがくぼみ、道路が波打っていた事を思い出す。それほど建設用のトラックが往復しているのだ。


 「ねぇ、おばあちゃん、ダムどこ!?ダム!」。土産屋にいた無神経な中年女性の観光客が突拍子も無く質問していた。ダムは出来ていない、むしろ当時、計画は中止になっていた。おばあちゃんの顔は笑顔を失い、怒りを通り越して、呆れの表情だった。彼女は長年の闘争を知らずに、テレビで流される言葉を聞いて、興味本位で訪れたのだろう。それにしても無神経すぎる発言だった。このような観光客は決して少なくない。

 巨大な観光バスは、小さな駐車場に入り込み、テレビ映像で有名な橋脚を観光して返っていく。観光業者にとっては八ツ場ダム問題はカネのなる問題らしい。テレビで流された映像を実際に見て、カネを儲けて、去っていく。
 観光業者が金儲けするために、地元住民が長年闘ってきたわけではない。闘う姿をあざ笑うかのような観光が許せなかった。



 彼らはこの土地を守り、この土地で生きようと闘ってきたのである。



 地元住民は、「八ツ場ダム建設中止」に反対する署名運動を行っていた。40年間、ダムと闘ってきた彼ら彼女らの結論は、「ダム建設」なのである。
 街の雰囲気は、「いまさら、後戻りできない」といった状況だ。

 マスコミが大規模に報道し八ツ場ダムはいわゆる「ムダ」公共事業の象徴となった。報道の表面だけ見る人は、ダム計画に賛成している地元住民はカネが欲しいから賛成しているのだろう、と思っていたに違いない。しかし、そこには長い歴史がある。

客観的視点を除き、私の意見を述べると、
地元住民はダム建設を心の底から賛成していないと感じる。
「代替地に移りたくない」という彼らの気持ちが、それを暗に表現しているだろう。


 では、彼らは本当に何を望んでいるのか。

ダム計画中止や推進ではない。賛成でも反対でもない。

彼らの望むものは、先の見える安定した幸せで平凡な生活である。
私たちの一般市民のような、普通の生活である。



マスコミ報道によって、
世の中を掻き乱す政治家ばかりが、注目を浴び、
政治に人生を掻き乱された、声なき声の市民は世間から黙殺される。


置いてけぼりにされ、忘れ去られてしまう、一人ひとりの人生。

問題や事件がある限り、そこには人が絡んでいる。
人が絡んでいる限り、そこには人生がある。

大切な、一人ひとりの人生である。


「ムダ」な公共事業に対し、馬謖を切らなければならないと思いつつ、
私は、長年闘い続けた住民に心を寄せる。



2010年9月10日金曜日

『食肉と差別』


「ギギギギッ」。機械音とも聞こえる音は、豚の鳴き声だ。300頭ほど豚が集められた施設から、彼らの最期の鳴き声が聞こえる。屠殺現場は見えないものの、その鳴き声は「生と死」の狭間を感じさせる。品川駅港南口から徒歩5分、東京都中央卸売市場食肉市場がある。東京の食肉を支える人々に対する、偏見や差別は今でも絶えない。

 羽田空港から飛び立つ飛行機の空域の関係で、品川のオフィスビルは高さ制限を強いられている。驚くほど見事に、同じ高さの高層オフィスビルが立ち並んでいる。空から地上に目を向けると、スーツ姿のサラリーマンが仕事終わりの一杯を楽しむ居酒屋街があり、街は華やかだ。そんな品川の街の一角に、巨大だけれど、誰かの目から隠れるように、ひっそりと建っている施設がある。それが食肉市場だ。

 敷地内に入ると、牛や豚が放つ獣の臭いが鼻を突く。ガラス張りの高層オフィスビルを見上げ、牛と豚に目を落とす。このコントラストは、どちらが現実なのかと私を混乱させた。目の前にいる見事に太った牛と豚が、私たちの食肉を支えていると思うと、改めて動物に感謝せざるを得ない。動物の肉を食べるということは、動物を殺し、皮を剥ぎ、肉を切り落とす人がいる。そして最終的に私たちが、その恩恵に預かり、消費者として食事を楽しむ。

 私たちの食肉を支えている人々、つまり動物を肉にするまでの過程に従事する人々は長い間、差別と偏見の目を向けられていた事は知っているだろうか。むろん、差別は今現在でも続いている。

 食肉供給に携わる仕事、また食肉は仏教思想の普及で江戸時代までの1200年間、タブー視されていた。そのため江戸時代以降も、食肉供給の仕事は「賤業」や「卑しい仕事」として被差別部落の人々によって担われていたという。その影響で、現代においても差別や偏見が残っているといわれる。

 食肉市場施設の中に「お肉の情報館」という、食肉供給の仕事を正しく理解するための施設がある。どのように食肉ができるか、衛生管理、差別の歴史などが展示されている。その一角に、施設や仕事に従事している人々に対しての誹謗中傷を書き連ねた手紙やEメールが展示されてある場所がある。手紙の送り主は動物の肉を食べているにもかかわらず、憎悪に満ちた字体で手紙を書き、内容は決して口に出来ないほど低俗で想像力に欠ける事が書かれてある。誹謗中傷の数々を読み、相手にしてもしょうがないと思っていても怒り、食肉供給に従事している人に心を寄せると、悔しさで涙が出てくる。

 動物が殺されるところを見て、心が痛まない人はいないだろう。動物がかわいそうとも思うだろう。誰でもそうだと思う。それが素直な感情だと私は思う。だからといって、動物を殺さないわけにはいかない。
肉を食べないわけにはいかない。


 ガラス張りの高層オフィスビルと屠殺現場は、どちらが現実だろうか。


見たくない現実に蓋をする風潮がある。
だから、この世界には上っ面しかない。偽物の汚らわしい美しさしか見えない。
せめて、私たちの生活に関わる見えない現実には、目を向けていたい。
命を食べることは、生命の喜びと美しさがある。

大都会、品川で馬刺を嗜みながらそんな事を思った。


関連映画
『いのちの食べかた』