2011年3月14日月曜日

募金先 参考:朝日新聞


募金先をまとめてみました。
参考は今日の朝日新聞朝刊です。





NPO法人「日本災害救援ボランティアネットワーク」
・三井住友銀行西宮支店()7022161
・ゆうちょ銀行00900529560
NVNAD国内支援口」

NPO法人「アドラ・ジャパン」
三菱東京UFJ銀行表参道支店()1956381 「トクヒ」アドラジャパン」
・ゆうちょ銀行00290234169 「(特活)ADRA JAPAN
「東北地震」または「緊急」と明記
サイトでクレジットカードでの寄付を受付

●日本財産
・「CANPAN 東北地方太平洋沖地震支援基金」サイトで、クレジットカード決済で12千円から寄付を受付

国際協力NGO 「ピースウィズ ジャパン」
・三井住友銀行桜新町支店()6723184
・ゆうちょ銀行001603179641
「東北地方太平洋沖地震支援」と明記
・サイトからクレジットカード決済も可能

●ヤフージャパン
・サイトの「緊急災害募金」でポイントや壁紙販売による寄付を受付

●モンベル
・三菱東京UFJ銀行信濃橋支店() 3963129
「アウトドアギエンタイ ダイヒョウ タツノイサム」
・サイト内で物資支援やボランティアも募集

●ソフトバンク
・「Yahoo!ケータイ」トップページからデジタルコンテンツ購入による寄付
・電話番号「*5577」から音声ガイダンスによる寄付を受付

●カルチュア・コンビニエンスクラブ
Tポイントによる寄付を受付

●ジャパンネット銀行
・ジャパンネット銀行本店営業部()0704376
「ジヤパンネツトギンコウトウホクチホウタイヘイヨウオキジシンサイガイ」

●シティバンク
シティバンク大手町支店()7778563
City Japan Relief Fund
サイト:

●グリー
SNS GREE」内でオリジナルアバター「GREEボランティア」購入による寄付

●ニフティ
・壁紙購入による寄付

●ネットプライス
・一口100円でクレジットカード決済の募金を受付

●民主党
・りそな銀行衆議院支店()7815354
・ゆうちょ銀行00110665328
「民主党募金口座」

●日本共産党京都府委員会
・ゆうちょ銀行0109060084306
「日本共産党京都委員会」。通信欄に「地震救援募金」など、募金の趣旨を明記

NPO法人「難民を助ける会」
・ゆうちょ銀行001009600
「難民を助ける会」通信欄に「太平洋沖地震」と明記

NPO法人「AMDA
・楽天銀行ロック支店()7002547
・中国銀行奉還町支店()2070291
ゆうちょ銀行01250240709
通信欄に「131」又は「東北地方太平洋沖地震」と明記。
口座名はいずれも「特定非営利活動法人アムダ」
サイト:http://amda.or.jp/

2011年2月15日火曜日

『御茶ノ水のホテルの一室で』


 建物の外壁に残された銃弾の跡を数えきれない。一面に広がる小さな白い墓石を数えきれない。全て1995年までの戦争の傷跡だ。セルビアからボスニアに向かう約9時間の電車の旅はまるで生きる戦争博物館である。旧ユーゴスラビアの冬はとても厳しい。見渡す限りの大自然に降り積もる雪。凍てつく風。人々は肩を竦めて歩いていた。しかし、たった16年前に大虐殺が起こり、戦争が終わったにもかかわらず、街は都会並みに発展しており、人々は明るく優しい。戦争で負った心の傷を忘れようとしているのだろうか。心の傷跡は建物に残された傷よりも深いに違いない。20112月上旬、一週間ボスニアを訪れた。第二次世界大戦以降ヨーロッパで起こった最悪の戦争。私たちが同じ時期に、日本で平和に暮らしていた事と対比して読んでいただけたらと思う。

 「この町では1500人が殺された」、「この町では3000人が殺された」、「この建物内で700人が殺された」。ガイドを勤めてくれたスケンダー(26)の喋りはこの地域に入ると止まる事を知らない。彼だけではない、この地域の全てが常に何かを訴えている。ボスニアの首都サラエボからセルビアとの国境付近スレブレニツァまで車で2時間半。その間、いくつの破壊された赤レンガ造りの家を目にしただろうか。大自然に囲まれたボスニアでは、数多くの山々に未だ地雷が埋められたままである。時折、目に留まる小さな赤い旗にガイコツが描かれた地雷警告板が緊張感を刺激する。1995年7月、約2週間の間にボスニア人8372人が虐殺された舞台が、目的地のスレブレニツァである。遺体が発見され、身元が明らかになった人々は3500人ほどいるが、4000人以上がいまもこの地のどこかに埋められたままである。

 虐殺現場に足を踏み入れた。広い敷地に冷たい風が吹き、重く、冷たく、静かな雰囲気が漂う。一歩一歩しっかりと踏みしめて歩かないと、恐怖に押しつぶされてしまいそうだ。車のモーター工場の跡地を1995年当時の国連オランダ軍が拠点として利用したところが、約1000人が虐殺された現場である。壁に残された銃痕に触れると、ひやりと冷たい。すべての傷跡が時を逆巻にし、当時の様子を喚起させる。すべてあの時のままだ。
 現在ここは、Memorial Roomとして利用されている。館長のハッサムさんが鍵の掛かった固く閉ざされた扉を開けてくれた。建物の中には、当時の写真や人々の遺品が飾られている。遺品はまだまだ少ないものの、そこに人々がいたことを示すのには十分だった。ハッサム館長は、ここをより記念館らしくするために日々奮闘している。「セルビアは戦争後半の大虐殺を否定している。そして今でも、1000人近い元セルビア軍人がこのスレブレニツァに住んでいる。そして虐殺したことを否定する奴もいれば、虐殺を正義のためだったと言う奴もいる」。ハッサム館長は当時の事を説明してくれる間、時々語気を強め、怒りを露にしていた。彼自身、大虐殺が起こった当時スレブレニツァに住んでいた。館長は彼自身が生き延びることができた事を運が良かったと言う。生き延びた事への責任感もあるのだろう、記念館の設立もそうだが、私の一つの質問に対して百の答えを返してくれた。一つひとつの強い気持ちがこもっている言葉に、久しぶりに出会った。体験者が語れる言葉であろう。

 Memorial Roomの目の前には、虐殺記念碑がある。ここにも白い墓石が一面に広がる。その中に、緑色の小さなプラスチック製の墓石がいくつかあった。スケンダーに尋ねると、それは去年新しく発掘された人々の墓で、今年7月の記念日に白い墓石に建て替えられるという。虐殺遺体の発掘作業は今でも続いている。多くのNGOが発掘作業を行っているという。発掘作業には莫大な費用がかかり、なかなか進んでないのが現状だ。スレブレニツァの土地を一歩踏むたびに、この下に人が埋まっているかもしれないと困惑した。スケンダーとハッサム館長は口を揃えて、私に何度も訴えた。「虐殺され埋められた人々は、ずっと探されるのを待っている。この地での戦争はまだ終わっていない」。

 虐殺されたうちの90%以上は男性だ。残された母親や妻、子供はいまでも生きている。16年前に起きた虐殺だから当然である。私たちと同年代の子供もいる。スレブレニツァで観たインタビュービデオには、夫を亡くした夫人達が多く映されていた。私の母親と同い年くらいであろうか。戦争が始まる前に撮られた家族旅行の写真を見せながら、悲しみを語っていた。「夫がいつ何処でどのように殺されたのか、いま何処に埋まっているのか、何も分からない。今でも毎晩、夫の事を想い泣いています」。愛する人や家族を失うということはどういうことなのか、それは私の理解の範疇を越えるところにある。「遺族にとって『どのように』ということはとても関心の高いことかもしれないが、『なぜ』この虐殺が起こったのかを僕らは追求しなくちゃならない。二度と起こしてはならないんだ」。

 戦争当時の首都サラエボを記録した映像は、凄まじい。追撃砲(mortar)で79人が死亡した直後の映像である。女性の足首は骨が剥き出しになり、皮一枚でギリギリ繋がっていた。頭蓋骨の一部が欠けた死体。血の海。まさに地獄絵図である。前述したようにガイドを努めてくれたスケンダーは現在26歳である。彼が8歳から11歳の時期、サラエボで戦争を体験した。サラエボはセルビア軍に包囲され、食料や医療がままならなく、飢餓で亡くなった人も少なくない。その他、スナイパーによる射殺、砲弾による虐殺を含め4年間の間に11,000人以上が亡くなったと言われる。スケンダーは決して食事を残さない。「食べることができなくて亡くなった人が沢山いた。絶対に残してはいけない」。彼自身、戦争の記憶は強烈に残っていないと言うが、記憶ではなく骨や随に戦争体験が染み付いているのだろう。

 墓石の前でたたずみ、泣いている女性がいる。老人夫婦が墓石の上の雪をかき分け、キレイに掃除し、花をいっぱい飾り、墓石の前でたたずむ。見渡す限りなく降り積もる雪のように、サラエボにも白い墓石が一面に広がる。大多数の墓石には92年や95年と死亡年が刻まれていた。なかには、生存年が91-95年というのもあった。墓石には赤ん坊の写真が埋め込まれている。なんとも短い命だったのだろう。きっと私たちと同い年生まれで、戦時中に亡くなった子供の墓石もあるだろう。日本では決して体験できないことを、サラエボではできる。それは、同世代が戦争体験をしていると言うことである。日本では1945年に広島・長崎に原子爆弾が落とされた。66年前のことである。被爆者や戦争体験者は年を取り、話を聞く機会も少ない。しかし、このボスニアでは大多数が戦争体験者である。みんな戦争を知っている。戦争とは何なのか知っている。虐殺とは何なのか知っている。家族を失った悲しみである。最愛の人を失う恐怖である。だから、みんな墓石の前で泣くのだ。

 サラエボはヨーロッパのエルサレムと言われる。エルサレムはアルメニア・イスラム・キリスト・ユダヤ教の聖地とされ現在に続く紛争はあるものの、各宗教が集っているところである。サラエボにもイスラム・キリスト・セルビア正教会・ユダヤ教が集っているところだ。町を歩けば教会、シナゴーグ、モスクがある。スケンダーは言う。「戦争直前もまさか戦争が起こると思っていなかった。みんな共存してきたんだ」。残念ながらサラエボ市民は戦争を忘れようとしているとスケンダーは言っていた。特に若い人たちは過去の戦争に目を向けないのだという。何故だかは分からない。スケンダーはたった一人でツアーを営んでいる。全世界の人々にサラエボで何が起こったのかを知ってほしいからだ。たった一人の闘いである。しかし、ツアーには様々な国の人が訪れている。子供から大人。全世界の人である。世界は変えられない。だけれども彼は人ひとりずつの心を確実に変えている。非常にパワーのある若者だ。ヨーロッパのエルサレムと言われるほど、様々な文化が入り交じり、美しい都市だ。それが共存する素晴らしさである。彼は彼の土地や歴史を守るために一人で頑張っている。彼は非常に優秀だ。戦争で被害の大きい各地をツアーで回る組織を彼自身で立ち上げ、彼自身でガイドをする。ツアーのホームページも彼が2年の歳月を懸けて作ったと言う。サイトはプロの仕事と言う他ない。そんな若者に出会えて本当に嬉しかった。
スケンダーのサイト:http://www.sarajevofunkytours.com/en.html

 マーケットの隅に、花束の山がある。約60人が虐殺された場所だ。私がそこを訪れた日はちょうどその虐殺の記念日であった。記念碑が建てられており、その後ろのガラス窓には被害者の名前が書かれている。よその民族が献花するとは何事かと思われるのが不安であったが、花を渡してくれたおじさんが笑顔で花を渡してくれ、私を受け入れてくれた彼らの姿勢がとても嬉しかった。私も一束の花を献花させてもらった。黄色の、とても美しい薫りのする花だった。花を持ちながら、墓石の前に立つ。とても悲しい場所なのにも関わらず、私はとても優しい気持ちになれた。花売りのおじさんたちが私を快く受け入れてくれた事もあるだろう。より空想的に言うなら、虐殺された方たちが私を受け入れてくれていると心から感じたのである。献花し終えると、おじさんは「ありがとう」と言い、サラエボの人々の心の大きさ、みんなが共存し合えると思う心を持っているのだということを肌で感じた。

 この国は悲しみ以上に幸せが存在する国である。公園ではカップルが寄り添い、子供は無邪気に遊ぶ。なんと言っても人々の笑顔が素敵だ。オスマン帝国時代の雰囲気が残っているサラエボ旧市街、世界遺産の橋があるモスタル、各地を回る際、電車から見える風景は言葉には表せない。このような美しい土地が彼らの心を育て、彼らがこの土地の美しさを守っているのだと思った。

 家族や愛する人を失い、戦争で負った心の傷は決して癒えない。しかし、彼らはこの土地を愛し続け、人を愛し続ける。それが彼らの明るさの源なのかもしれない。どんなに悲しくても、愛する心を決して忘れない。愛する心を忘れられないから、永遠に泣き続けるのかもしれない。透明で、真っ直ぐで、どこまでも素直な彼らの心。器用なやつが上手く生きると言われる。そんなことはない、自分の心に素直なやつが人生を幸せにできる。

 いま隣に、私の愛する人がいる。幸せとはこういうことなのだと改めて感じる。愛する人に対してはいつまでも、素直な心でいたい。幸せにしたい。そんなことを考えた日本に帰国して初日の夜である。

2010年11月28日日曜日

『涙は海の味』


 「政府が変わっても、ここは変わらないねぇ」。“おばあ”はもうすぐ90歳になろうとする。沖縄戦、米軍占領下の沖縄、本土復帰後の「基地の島」沖縄に住んできた人々の言葉は重い。たくさんの想いと悲しみが込められた言葉である。どっしりとした体に、かわいい笑顔。温かさと侘しさを映し出す目を辺野古の海に向けて、そう述べた。

 コバルト色を放つ海。白い砂浜。ジュゴンの生息地として有名な辺野古の海は、海草も豊富だ。きれいに透き通った海の底を見るとサンゴが波と一緒に踊っている様に見える。ゆったりとした自然のリズムは人間に心地よく、人間も自然の一部なのだと実感できる。海草はもちろん人間も食べることもできる。若者が海草を取りに行き、老人が陸で野菜を育てる。若者と老人の間で海草と野菜を物物交換することもあるという。自然と人間が共に生き、ファストフードではなく、自然が育ててくれたスローフードを嗜む。これが辺野古に住む人々の生活だ。砂浜を歩けば流れ着いた流木が歴史を語り、サンゴの死骸が砂浜にキレイな模様を描き、ヤドカリはてくてく歩く。無限に広がる博物館。「一つが見えてくると、全体が見えてくるんだよ」。いつも笑顔のまんちゃんは大きな地球の真理を教えてくれた。

 「2343」。2010917日までに辺野古の市民が座り込みを続けてきた日数である。普天間基地の移設先として、辺野古の海は埋め立てられようとしている。雨の日も、風の日も、嵐の日も、灼熱の日も市民が座り込みを続ける辺野古を1年ぶりに訪れた。辺野古の市民は現状を変えるために、一人ひとりが行動を起こし、闘っている。争うためではなく、守るために。

 数年前に辺野古の海に基地建設の環境アセスメントを実行するためにやぐらが建てられた。住民はカヌーに乗り、海上で闘った。なかにはお年寄りもいたという。やぐらが建てられると、住民はこれ以上工事を進行させないために、やぐらに登り、闘う。鉄骨でできたやぐらに住民はしがみついた。政府から派遣された環境アセスをする職員は、しがみつく住民の手を無理矢理はぎ取り、ある住民は船の上に、頭から真っ逆さまに落ちたという。「打ち所が悪かったら、間違いなく死んでいた」。座り込みをする“おばあ”はそう当時を語ってくれた。
どこのメディアがこの事実を報道しただろうか。
政府が非暴力の市民を殺そうとしたのである。
海中で闘う市民もいる。彼らは職員に酸素ボンベのノズルを閉められ、息ができなかった。殺そうとしたのである。
この海を守るために、住民は死ぬ気で闘う。

権力と闘うこと。
言葉では簡単ではあるが、事実は想像を絶する。
権力とは概念ではあり、決して目に見えない。
彼らはそれと闘っているのである。
この時期に闘っていた住民の多くは権力との闘いあと、体を崩したという。

権力と闘うということを体で感じ、
いかに巨大で、いかに暴力的で、無慈悲か。
すべての想像を越える権力。
その権力と自分たち自身が闘っているという事実を認識したとき、人々の精神は崩壊する。
その事例を、座り込みをしている人々が体現していた。

決してこの苦しみは誰にも分からない。体験した人々でないと分からない。
私にも分からない。いかに恐ろしいもので、人間を蝕むのか。


今日、20101128日日曜日は沖縄知事選だ。勝負の日である。

基地はいらない。今まで生きてきた私の人生のなかでの結論である。

基地はいらない。基地はいらないのである。


沖縄で少女が米軍にレイプされるのも、沖縄から派遣された米軍がイラクやアフガニスタンで子供や女性を殺すのも、爆音で夜が眠れないのも、基地によって仲の良かった地域が分断されるのも、沖縄の人々が悲しい顔をするのも、
もう、たくさんだ。


沖縄は観光の島ではない。
基地の島である。
みんな知らない。自分が観光だけ楽しめば良いと思っている。そんなんじゃない。
観光を楽しむのもすごい大切だけど、
それを支えている人々の、過去の悲しみや、現代の苦しみに目を向けてほしい。



「政府が変わっても、ここは変わらないねぇ」と“おばあ”は言った。でも「沖縄の市民は変わり始めている」とも言った。
日本を変えるのは絶対に政府なんかじゃない。私たち一人一人の市民である。




絶対に変えたい。
私は怒っている。



久々に泣いたような気がする。
悔しさで流れた涙は、海の味がする。

2010年11月1日月曜日

『笑顔の裏に隠されたもの』


 澄み切った空気に輝く星たち。そんな夜空に、銃声が鋭く鳴り響く。「大丈夫だよ。毎晩のことさ。私の子供は怖がってもいない」。私よりも年下の幼い2人の子供達は、銃声よりも日本人の私に興味津々だ。肩を抱き寄せ、大丈夫、大丈夫と優しく守ってくれたバラカットさん。モサモサにたくわえられた真っ白なヒゲとお父さんのような優しい笑顔が、怖がる私を少し安心させてくれた。子供達の笑い声はいつまでも賑やかだ。20082月から1ヶ月間、パレスチナを訪れた。あれから、もうすぐ3年が経とうとしている。いまでも子供達は銃声が鳴り響く夜空の下、寝ているのだろうか。初めて訪れた紛争地、パレスチナ。私の夢の出発点である。




 1948年、イスラエルの独立宣言を契機に第一次中東戦争が勃発した。以後3回の大規模紛争を繰り返し、いまのイスラエルとパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区・ガザ地区に分断された。現在でも紛争は続いており、死者は絶えない。一般的にこの紛争は宗教紛争だと言われている。イスラム教とユダヤ教の対立だ。エルサレムからバスで南へ1時間程行くと、最も宗教対立の激しいヨルダン川西岸地区ヘブロンという地域がある。私はBreaking the Silence というNGOのツアーでその地域を訪れた。

 ヘブロンはイスラム、キリスト、ユダヤ教の祖であるイブラヒームの墓がある。イスラムの礼拝所モスクとユダヤのシナゴーグが隣接してあり、とても神聖な場所である。神聖であるが故、ヘブロンには一部の過激な宗教者が居住している。特に一部の過激なユダヤ教原理主義者によるパレスチナ人に対する嫌がらせは、耳を塞ぎたくなるほど酷いものだ。パレスチナ人の家に石を投げガラスを割ったり、人糞を投げつけもする。学校に登校中のパレスチナ人小学生に石を投げつける被害も相次いでいる。一部のユダヤ教原理主義者たちはパレスチナ人を「犬」と呼んでいる。

 ツアーの一環でパレスチナ人宅に訪れ、現地の人の声を聞く機会があった。5歳ほどの男の子が玄関で出迎えてくれた事を覚えている。無邪気な笑顔が、この地で起きている事実を忘れさせてくれた。子供の父親がいま起こっている事を簡単に説明してくれ、話の中心は子供に移っていった。

 「2年前、子供が庭で遊んでいると、丘の上からユダヤ教原理主義者の女性が降りてきて、子供に怒鳴りつけるなり、子供の口に大きな石を詰め込み、そのまま子供を殴ったんだ」
 
 当時3歳だった子供の歯はバキバキに折れ、口から血が止まらなかった。どれほど怖かったか、どれほど痛かったか、子供の気持ちに心を寄せれば寄せる程、心が痛かった。話を聞いている最中、少年は私たちツアー客に笑顔でお茶を差し出してくれた。彼の笑顔は私を安心させるとともに、私の心をさらに痛めもする。笑顔の裏にある彼の記憶は決して消える事はない。その過去を背負いながらも、彼は天使のような笑顔をみせてくれる。

 小さな少年に大きな傷を残した事実。これも戦争の一つである。決して核兵器や戦闘機を使った戦いだけが戦争ではない。私たちの見えないところで戦争は起こっているのだ。見ようとする先に、見るべき現実がある。決して目をそらしてはならない。



 「この現実の中、日々生活していて、どうやって平和をイメージすればいいんだ」。エルサレム郊外の難民キャンプ近くに住む、冒頭のバラカットさんは心中を私に語ってくれた。何も言えず、私は黙ってしまった。
いまでも何と答えていいのか分からない。
ただ考え続けている。


ちょうど3年前の今日、Oxfordに来ていた。
大学生活が始まった頃の私と比べて、大学生活が終わろうとしている現在の私はどう成長してきたのだろう。
いや、振り返るのには、まだまだ若い。これからも突っ走って行こう。だから、またここに来ているのだ。


キッパを被ったユダヤ人が目の前でインターネットをしている、
そんなOxfordのスタバからのお便りです。

2010年9月15日水曜日

『星空の繋がり』


 「おはよう」。それが私と彼らが交わした最初の言葉だった。日比谷線・南千住駅の改札を抜けると、異様なニオイと雰囲気が漂う。捨てられた缶ビールと散らかる吸い殻。線路をまたぐ歩道橋からの景色は、隅田川沿いの閑静な街に見える。しかし、その街には誰もが見知らぬふりをする路上生活者街がある。駅から徒歩で10分程行ったところが山谷と呼ばれる路上生活者街だ。超近代建築、東京スカイツリーが見下ろす山谷は、一見寂しい街だが、そこには人と人とが繋がり、助け合う雰囲気がある。200912月、私は山谷に炊き出しの手伝いに行った。雪が降り出しそうな寒い冬空の下、温かい人の営みがそこにはあった。

 建物が立ち並ぶ山谷の一角。500人ほどの炊き出しを待つ、長い行列が私を圧倒した。話しながら数人のグループで待つ人々、大きな荷物を持って孤独に並ぶ人。全てが私にとって始めての視界だ。身も知らぬ私に、彼らが挨拶してくれ、緊張が少し緩んだ。白い御飯に豚汁をかけた食事を求め人々は集ってくる。食事を終えた後、もう一度、列に並ぶ人もいた。山谷において食事という人間の生きる営みを支える団体の一つが、日本にあるマザーハウス系列の施設、Missionary of Charityだ。

 並んでいる人々に食事を配り終えると、次に弁当を持って地域を回る。動く事の出来ない高齢の路上生活者のためだ。弁当の入ったカゴを、自転車にヒモで結び、一人ひとりに手渡していく。無表情な彼らも私たちが話しかけると喜んで返事をしてくれる。「この弁当、キムチが入っていて辛いけど大丈夫?」。同じボランティアの大泉さん(60)の声掛けが温かい。動く事が出来なく、普段孤独な彼らの体調に誰も気がつかないため、ボランティアによる声掛けが非常に重要である。

 路上生活者を「負け組」と排除し、「自己責任」との偏見が根強い日本社会の風潮がある。しかし、貧困は日本における深刻な問題である。新卒切りや内定切り、派遣切りなどの雇用問題は、いつ自分の身に降り掛かってくるか予想もつかない。企業の論理によって、簡単に人の人生は一転する。それが現実だ。人のいのちを「商品」としか見えなくさせる、新自由主義や効率化の波が日本にも迫っている。それが貧困日本社会の裏舞台にある。決して、人のいのちは経営者が金儲けするための「商品」ではない。

 キリスト教の影響もあるが、貧困問題が見えづらいためか、前述したMissionary of Charityのボランティアには外国の方が多い。マザーハウスから派遣されたインド人やキリスト教の韓国人が多数派を占める。弁当にキムチが入っていたのもそのためだ。私を含め、日本人は見知らぬふりをする傾向が少なくない。ただただ海外からの日本に住む外国人に感銘を受けるばかりだった。

 私が育ち、21年以上住む街、横浜にも路上生活者街はある。横浜スタジアムの真横、寿町だ。きれいで、華やかな横浜の一角にある、どんよりとした雰囲気には驚かされた。今まで21年間生きて、その存在さえ去年まで知らなかったのだ。

 灯台下暗しとは言うけれど、ごく身近な場所に私自身の問題意識がある事に改めて気づかされた。

 例えば、雨の降る日、傘を持っていない路上生活者の方に傘をあげることで、今まで自分の世界にはいなかった人を、同じ人間なんだと捉える事が出来るかもしれない。一人の人間と繋がり、自分と社会が繋がる事もある。視野を拡大する要素は無限に身近にあるのだ。

人と人が繋がった先に、自分と社会は繋がる。

人と人との繋がりは、山谷での出来事のように助け合いを生むことがあるし、自分と社会との繋がりの接点を生み出す事もある。

人と人が繋がり、同じ人間であると心から感じることが助け合いを生むきっかけになるのであると山谷で感じた。


アフガニスタンに行く、米軍に勤める若いアメリカ人看護士と握手を交わし、アフガニスタン戦争と私が繋がったときに、
波の音に耳を澄まし、流れ星が流れる沖縄の満点の星空の下、想ったことである。